1848年着工。しかし南北戦争などの影響から資金不足となり、完成したのは1884年。大理石、花崗岩、砂岩などアメリカ国内で産出した石をおよそ3万6千個も使って築かれている、高さ169m(約555フィート)の巨大記念塔。石造りの建造物としては世界最長の高さを誇るのだそうです。もちろんエジプトにあるどのオベリスクより巨大。しかし計画の段階では、270mくらいの高さにしようとしていたというから驚きです。, 1858年頃に一度工事が中断し、20年ほど経ってから再開しているため、積み上げられた大理石の色合いが途中から(地上46m付近)若干異なります。, 外から見るだけのものなのかな、と思いきや、なんと塔の中には小型エレベーターがついていて、最上階が展望室になっているのです。ただ、残念ながら、エレベーターの故障が頻発するなどの問題があり、最上階へは上がれないことが多くなっているようなので、どうしても上がってみたい!という方は、事前にチェックをしてからお出かけになってください。, 建設は1962年の万国博覧会のとき。高さ184mの高層建造物は当時、アメリカ西部ではまだ珍しかったせいか、1日2万人もの来場者が展望台からの光景を一目見ようと、このタワーに集まったのだそうです。展望台の位置は地上159mで、シアトルの市街地はもちろんのこと、かなたに広がる山脈まで見渡すことができます。建設当時の構想はやはり「空飛ぶ円盤」だったのだそうです。, 現在、シアトルの街中には随分とたくさんの高層ビルが並ぶようになりました。スペースニードルより高い建物が当たり前になってしまいましたが、それでもシアトルの街の写真では、スペースニードルが中心になっているものが多いです。半世紀以上の時を経てもなお、シアトルのシンボルであり続けるタワー。展望台には23時頃まで入場できるので夜景もオススメですが、是非、明るい空の下、ちょっと離れた場所から、高層ビル群を背景に眺めてみてください。きっといい一枚が撮れると思います。, 1933年に着工し、1937年に完成。主塔の高さは水面から227m、主塔間の長さは1,280m、橋の全長が2,737m。, この後、アメリカ国内でも次々と大きな吊り橋が造られていきますが、1964年にニューヨークのヴェラザノ・ナローズ橋(スパン:1,298m)が完成するまでは、スパン(支点間の距離)で世界一を誇っていました。現在、スパン最長のつり橋は、明石海峡大橋です。, 橋は徒歩で通ることもできるので、歩いて渡ろうとする人も結構います。また、橋の周辺には、橋を間近で見られる公園やビュースポットがたくさんあるので、ベストポジションを探してみるのもオススメです。行き帰りの交通手段に問題なければ、夕暮れ時にも是非、足を運んでみてください。, あれは「ハリウッドサイン」といい、1923年に住宅地開発の広告として設置されたもので、当時は”HOLLYWOODLAND”という綴りで、電飾なども付けられていたのだそうです。1年ぐらいで撤去する予定が、ロサンゼルスの映画業界が盛り上がってきてこの広告も有名になり、そのまま残されたものと思われます。, しかし、そんなにしっかりした造りではなかったため、何年か経つうちにいくつかの文字が破損。1970年頃には、右端の”LAND”はほぼ見えなくなり、”HOLLYWOOD”もOの字が朽ちて何と書いてあるのか読み取れなくなってしまったのです。, 管理者不在の看板広告。本来ならそのまま放っておかれるところを、さすがロサンゼルス、この看板の保全を訴える声が上がります。寄付が集まり、もっと丈夫なスチール製の素材による文字への架け替えが行われることになったのです。その際、”LAND”は取り払われ、”HOLLYWOOD”という文字列だけを残すことになりました。, 1文字あたりの大きさは、高さ14m、幅9m。現在は、電飾などはついておらず、山肌に白い文字が横に並ぶシンプルな造りでさらに人気を増し、このサインを背景に写真を撮る観光客も。かなり離れたところからでもよく見えるので、ハリウッドサインが見える位置を探して街を歩くのも楽しいです。, もともとはペンシルベニア州の議事堂として建設された建物。そこに1776年7月4日、イギリスに統治されていた13の植民地(ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネティカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニア、デラウェア、メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア)の代表者が集まります。そしてトーマス・ジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言へ署名。このときからこの建物を「独立記念館」と呼ぶようになりました。, 1790年~1800年まで、フィラデルフィアはアメリカの首都として機能していきます。アメリカ合衆国議会議事堂が置かれ、建物の元老院が2階を、代議院が1階を使用していたことから、上院・下院という呼び方になっていった、等々、思わず「なるほど!」と唸ってしまうような情報がたくさん。建物の周辺は公園になっていて、のんびりくつろぐことができます。, 校舎や図書館などの施設への立ち入りは禁止ですが、屋外の決まったエリアなら自由に見学することが可能。学生さんが案内してくれる学内見学ツアーも催されています。, ハーバード大学の創立は1636年。アメリカがまだ植民地時代だった頃のことです。ハーバードという名前は、大学に寄付をした最初の人物(遺言で財産の半分を遺贈)というジョン・ハーバードの名前に由来し、校内には椅子に腰かけたジョン・ハーバード像が建てられています。厳密には”創始者”ではそうですが、この人の功績なくしてハーバード大学は語れないということで、この像の靴に障ると幸せになるという話まで出ているのだそうです。ちょっと前に出ている左足のつま先だけ、大坂通天閣のビリケンさんの足の裏みたいにピカピカになっています。, ジョン・ハーバード像にご挨拶をして、ちょっと厚めの本など小脇に抱えて、ハーバードの学生気分を味わうのも楽しそうです。生協では大学のロゴ入りグッズもたくさん揃っています。, ビクトリア式かゴシック式か、小塔のある重厚な石造りのお城で、目の前の池や鬱蒼とした木々と相まっておとぎ話のような光景を作り出しているんです。, 場所はパークのほぼ中央。79丁目から小道に入ったところにあるタートル池に面しています。お城はそれほど大きくないので、道に迷うと見つけられない可能性も。迷わないように気をつけてください。, どんなお城かというと、中世の王様が暮らしていたお城ではないんですが、建てられたのは1872年とかなり古く、歴史ある建物。パークの設計者によって設計され、パークオープン時(1873年)からずっと、ニューヨークの移り変わりを見つめ続けているお城なのです。, ”ベルヴェデーレ”とはイタリア語で「素晴らしい眺め」という意味。オーストリアのウィーンにベルヴェデーレ宮殿という宮殿がありますが、特に形が似ているわけでもないので関係はない様子。”ベルヴェデーレ”という言葉にあやかったのかもしれません。お城はちょっと小高いところに建っているので、お城の上からの眺めは抜群。セントラルパークが緑豊かな公園であることがよくわかります。, 一世を風靡した「アメリカ横断ウルトラクイズ」の第5回(1981年)の第1問目の問題。このクイズ番組で自由の女神についてかなり詳しくなった、という人も多かったようです。, もうわざわざ知ることなどないほど有名なスポットですが、ざくっとおさらいしておきたいと思います。, 自由の女神と呼ばれてはいますが、正式名称は「世界を照らす自由 (Liberty Enlightening the World) 」といい、アメリカ独立100周年を記念してフランスから贈られた緑青(銅製)の像。政府からではなく、フランス人の募金によって寄贈されたものなのだそうです。フランスで作られた後、300のパーツにバラバラに解体して、アメリカまで運ばれ再び組み上げられるという、気の遠くなるようなプロセスを経て誕生しました。, マンハッタン島の先端にあるバッテリーパークからフェリーで20分ほど、リバティ島という島に、自由の女神は立っています。, 地上からの高さは93m。大坂通天閣の高さが108mなので、通天閣を見上げたことがある人なら、女神像がいかに大きいか見当がつくと思います。大きな台座の上に立っているので、女神だけの身長は46mほど。ただ、周囲は海で、島には他に何もないので、台座の真下に建つと、思った以上に大きく感じます。右手にたいまつを、左手には”1776年7月4日”と刻まれたプレートを持ち、頭には7つの突起がついた冠が。「七つの大陸と七つの海に自由が広がる」という意味を持っているのだそうです。冠部分は狭いながらも展望台になっていて、事前の予約が必要ですがエレベーターとらせん階段で登ることができます。, もともと灯台として機能していたため、ニューヨーク港のほうをじっと見つめている女神像。時代が変わっても、これからもずっと、アメリカのシンボルとして灯を照らし続けていくのでしょう。, サウスダコタ州南西部キーストーン。「ラシュモア山国立記念公園」という広大な国立公園の中のラシュモア山の、花崗岩が露出したところに1941年、人々の度肝を抜く彫刻が姿を現しました。, 標高1745mの山の岩肌に彫られた高さ18mの胸像。作業開始は1927年。政府から委託を受けたアメリカの彫刻家ガットスン・ボーグラムが400人のと共に挑み、14年もの歳月を費やして完成させた超大作。花崗岩は硬く加工が難しいため、作業は困難を極めたと言います。風化を防ぐため、あえて硬い花崗岩の山を選んだのだそうですが、今のようにコンピュータなどない時代。作業は職人の経験と勘だけが頼りで、ダイナマイトで岩を吹っ飛ばしながら少しずつ形を作っていったのだそうです。, モチーフとなった4人の大統領は、左から初代ジョージ・ワシントン、第3代トーマス・ジェファーソン、第26代セオドア・ルーズベルトと第16代エイブラハム・リンカーン。最近では近くにビジターセンターや博物館、遊歩道などが整備され、より多くの観光客が訪れるようになっています。, 本当は胸像ではなく、上半身まで、上着や手元まで制作する予定だったらしいのですが、資金不足などの理由から作業は途中で終了、とうことになってしまったようです。, 周辺はウォータータワープレイスと呼ばれる歴史あるショッピング街で、買い物を楽しむ市民や観光客で賑わう通り。そこに高さ約42m、やや黄色みがかった石灰石を使用したゴシック様式の、ロールプレイングゲームに出てくるお城のような形をした塔が。まわりは近代的なビルばかりで、ひときわ目立ちます。, このウォーター・タワーが完成したのは1869年。中に高さ42mの立管が通っており、近くのミシガン湖の水を汲み上げて市街地に供給するポンプとして機能していました。, しかし1871年、シカゴで大火災が発生。多くの建物が焼失してしまう中、ウォーター・タワーはかろうじて焼け残ります。焼け残った数少ない建物として、ウォーター・タワーの存在は多くの人々に知られることとなり、シカゴ復興のシンボルとなったのです。夜になるとライトアップされ、周囲の高層ビルの夜景と共に幻想的な風景を作り出しています。, 近年、シカゴの街中にもたくさんの高層ビルが建てられ、街の様子は大きく変化。建設当時はおそらく他に類を見ない高さだったと思われますが、現在では高さ442mのウィリス・タワーを始め300mを超えるビルがずらり。童話の「ちいさいおうち」のように、大きなビルに取り囲まれた形になっていますが、ウォーター・タワーは昔も今も変わらない姿で、シカゴの街を見守り続けています。, この公園は、セントルイスの大聖堂建設と市政府樹立や、ルイジアナ買収(1803年にアメリカがフランスから広大な領地を1500万ドルで買収したという出来事)など、ルイジアナ州に関するいくつかの出来事を記念して造られました。構想は20世紀半ば頃から進められていたようですが、建設が始まったのは1963年頃。3年近い歳月が費やされ、1965年、ゲートウェイ・アーチは完成。鉄筋コンクリートと鋼板で作られた銀色に輝くアーチは、高さ192m、横幅最大192mと、セントルイスで最も高い建造物となりました。周囲にそれほど高い建物がないせいか、もっと小さなアーチなのかと思っていたら、圧巻の大きさ。大きいのでアーチ部分がとても細く見えるのですが、アーチの内部は空洞になっていて、小さなトラムで登れるようレールが敷かれています。最上部は展望台になっていて、眼下にはミシシッピ川の雄大な景色が。アーチの下には「西部開拓記念館」があって、開拓時代の様子に関する展示を見ることができます。真下から見上げたときの、美しく弧を描くアーチはまさに絶景。展望台もよいですが、是非、真下から見上げて、この奇抜でユニークな建造物を楽しんでみてください。, 韓国釜山2泊3日のモデルコース。韓国リピーターがおすすめする定番から最新スポットまで, ワシントンD.Cの中心部にそびえ立っている剣のような形をした白い巨塔「ワシントン記念塔」をご存知ですか?あれってどういう建物なのかな、と常々思っていたんです。いろいろ調べてみると、アメリカには他にも歴史ある巨大建造物が数多くあって、建設までの経緯や歴史など、興味深いところがたくさん!アメリカで歴史的建造物が見たい!とお思いの方に、旅行の訪問地域を絞る際の参考にしていただければ、思います。, ワシントンD.C.の中心部に位置する国立公園「ナショナルモール」の中心にそびえ立つ。, まるでてっぺんにUFOが乗っているかのような不思議な形のタワーが、ワシントン州北西部の街シアトルにあります。, 建造物か?と言われると少々弱いところですが、これぞアメリカ、とも言うべきシンボルを、カリフォルニア州からもうひとつ。, ニューヨーク州マンハッタン島のど真ん中、摩天楼の中にあって広大な敷地を誇る緑豊かなセントラルパークの中にお城があるのをご存知ですか?, アメリカを象徴するものとしてもうひとつ、岩山に彫られた4人の大統領の顔を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。, アメリカ合衆国は、ヨーロッパやエジプトなど、昔から王朝があったわけではないので、歴史的建造物はどれも、市民たちが力を合わせて守り続け、愛し続けてきたものばかり。. クリストファー・コロンブスは、アメリカ大陸を発見した大航海時代の探検家として歴史的に有名で、その後の世界へも大きな影響を与えました。, 15世紀から17世紀半ばまでの世界は、ヨーロッパ人によって世界各地への大規模な航海や開拓が行われた「大航海時代」を迎えていました。, この大航海時代の中ではアメリカ大陸が発見され、現在のアメリカ大陸に存在する国々や人々が形成されていくことになったのです。, そして、このアメリカ大陸発見を成し遂げ、その後の世界へ大きな影響を与えたと言われるのが「クリストファー・コロンブス」。, 大航海時代の探検家であり航海者であり、幾度にも渡る航海の末に、ついにアメリカ大陸へたどり着いた人物です。, この記事では、そんなコロンブスについて、基本的な知識から生涯、そして、知っておきたい6つの話までを紹介していこうと思います。, クリストファー・コロンブス(1451年頃〜1506年5月2日)は、大航海時代にアメリカ大陸を発見した、イタリアのジェノバ出身の探検家または航海者(※ジェノバ出身というのが定説だが、裏付けの証拠はない)。, 1492年、1493年、1498年、1502年の4回に渡って、スペインを出発して大西洋を横断する旅に出ました。, コロンブスは、「ヨーロッパとアジアを直接結ぶ西回りの航路」を発見しようと挑戦し続けましたが、アジアまでの航路の発見には至りませんでした。, このように、大航海時代の探検家としてコロンブスは意図せずに「アメリカ大陸発見」を成し遂げたわけですが、アメリカ大陸にはすでに何百万の先住民が住んでいたことを考えると、真の意味で新世界(注)を「発見」したわけではありません。, しかし、コロンブスによるアメリカ大陸の発見は、ヨーロッパ諸国へ大きな影響を与え、その後、数世紀にも渡るアメリカ大陸の征服と植民地化の口火を切るきっかけとなったことは確かなのです。, (注釈)新世界とは大航海時代以降にヨーロッパ人によって新しく発見された大陸。そこには南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸が含まれるが、アメリカ大陸だけを指して使われることも多い。, 15世紀から16世紀において、いくつかのヨーロッパ諸国の指導者達は、探検家たちが莫大な富と広大な未発見の土地を見つけてくれることを期待し、海外遠征を援助しました。, 1420年頃を始まりとして、キャラベル船と呼ばれる小さな船でアフリカ沿岸を行き来し、アジア・アフリカで手に入れたスパイス、金、奴隷などありとあらゆる品々をヨーロッパに持ち帰ったのです, ポルトガルによって大航海時代が幕を開けてからおよそ30年後の1451年頃、クリストファー・コロンブスは、イタリアのジェノバ(※ジェノバと言われているが証拠はない)で、羊毛職人の息子として生まれました。, そして、当時の時代背景的に航海者や探検家を目指す者が多かったこともあり、コロンブスは10代で商船での仕事に就きました。, しかし1470年、コロンブスの乗った船はポルトガル沿岸を北へ向かっていたところ、フランスの略奪船による攻撃にあって沈没。, 海に投げ出されたコロンブスは何とか羊毛のかたまりにしがみついて岸まで流れつき、ポルトガルのリスボンにたどり着いたのです。, その後、コロンブスはリスボンで、数学、天文学、地図作成法、航海術を学び、この時期に世界を永遠に変えることになる計画の構想を、密かに練り始めるのです。, 15世紀末、ヨーロッパからアジアへ陸路で到達することはほぼ不可能でした。道のりは長くて厳しく、行く先々で攻撃の標的になる危険性があったからです。, そこでポルトガルの探検家は、この問題解決のために海に目を向け、西アフリカ沿岸を南下し喜望峰を回る航路を開拓しました。, 地球の円周は定説よりずっと小さい(※これは間違っていた)と主張し、ヨーロッパからアジアへの西回り航路は実現可能なだけでなく、比較的簡単なことだと信じていたのです。, コロンブスはこの計画をポルトガルやイギリスの役人に提示し続けましたが、ようやく興味を持ってくれる人物を見つけられたのは1491年になってからでした。, その人物とは、スペインの君主であったアラゴン王国の「フェルナンド2世」と、その妻でありカスティーリャ王国の「イザベル1世」でした。, フェルナンド2世とイザベル1世に謁見したコロンブスは、スペインのために航海を成功させる条件として「富」と「名声」を手に入れることを提案。, それに対してスペイン国王夫婦は、カトリックの布教も要求しました(※フェルナンドとイザベルの二人はカトリック両王と呼ばれるカトリック界における代表的な人物だった)。, 敬虔なカトリック信者であったコロンブスは、もちろんこの要求に対して異論はありませんでした。, こうしてコロンブスは、1492年にスペイン王室との契約「サンタ・フェ契約」にこぎつけ、その内容は、, 1492年8月3日、コロンブスと乗組員は、ニーニャ号、ピンタ号、サンタ・マリア号の3隻に分かれてスペインを出航。, そして同年10月12日、コロンブス一行はついに「上陸」を果たします。しかし、そこは想定していたアジアではなく、バハマ諸島にある島の1つでした。, とにかくこれにより、新大陸(アメリカ大陸)ではないものの、アメリカ大陸に近いアメリカ海域へコロンブスは到達したのです。, その後、コロンブスは何か月にもわたって、現在のカリブ諸島の島から島へと航海を続け、スペイン王夫婦と約束した「真珠、宝石、金、銀、香辛料、その他の価値のある品々」を探し求めました。, その後、1493年3月、イスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国の一部)に築いた仮設入植地へ40人ほどの乗組員を残し、コロンブスは一旦スペインに帰還します。, そして、再び以前到達した場所へ戻るとコロンブスは、イスパニョーラ島の入植地が破壊されているのを発見(※何が起きたのかは未だに不明)。, この入植地を再建するために、弟のバルトロメとディエゴ、乗組員の一部、奴隷にした多くの先住民をそこに残し、自らはさらに西へと航路をとりました。, しかし、その航海の中でコロンブスは、思ったほどの金銀財宝やその他の貴重な品々を発見することが出来ません。, そこでコロンブスは、スペイン王国に約束していた金銀財宝の代わりとして、数百人にも上る奴隷を本国に送ってイザベル女王に献上。, しかし、コロンブスが「発見した」人々は既にスペインの民であって奴隷扱いは出来ないと考えていた女王はひどく驚き、この贈り物を送り返した結果、コロンブスは慌てふためき、釈明のためにスペインへ一旦帰国します。, ちなみに、新大陸の発見ばかりが注目されるコロンブスですが、実はその航海を続けていく中で、「奴隷商人」としての非情な側面も持ち合わせていました。, コロンブスは発見した土地の原住民達を、人間ではなく資源または商品として考えていたようなのです。, 実際、1回目の航海の後、何人かの原住民を連れ帰り、2回目からはもっと沢山の原住民をスペインへ送っています。, そして、2界目の航海においては、見つけた先住民達に対して徹底的な虐殺行為を行ったと言われ、彼らの住居は破壊され、所有物は略奪されました。, 先住民達も反旗を翻すこともありましたが、近代的な武器を持つコロンブス側との戦力差は明白で、2回目の航海が終わる頃には5万を超える先住民が殺され、また、コロンブスの先住民に対する襲撃戦略はその後、スペイン人が繰り返した虐殺モデルとなって10数年続いたとされます。, そして、この3度目の航海では、以前の2回よりも南寄りの航路を取った結果、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸。, これによって、ついにコロンブスはアメリカ大陸へ到達し、ここに、歴史上有名な「コロンブスによるアメリカ大陸発見/新大陸発見」が成されたのです。, その後、アメリカ大陸を一度後にしたコロンブスは、イスパニョーラ島の入植地に立ち寄りました。, しかしそこでは、コロンブスの弟達による劣悪な統治と残忍な行為に耐え切れなくなった入植者たちが、大反乱を起こしていたのです。, 結果、あまりに酷い状況を見かねたスペインは、新しい監督者を派遣せざるを得なくなると同時に、クリストファー・コロンブスは逮捕され、鎖につながれた状態でスペインに送還されました。, 1502年、重罪は免れたものの貴族の地位をはく奪されたコロンブスは、最後にもう一度だけ航海を援助してくれるようスペイン国王にお願いし、その説得に成功。, 4度目の航海でコロンブスはパナマまで到達し、その周辺を半年ほどさまよいましたが、最後は難破してしまい、1504年11月になんとかスペインへ帰国。, そして、1504年末に支援者の一人であったイザベル女王が死去すると、スペイン王室のコロンブスに対する扱いは冷淡なものとなります。, それからおよそ1年と半年後の1506年5月20日、クリストファー・コロンブスはこの世を去るのでした。, 大航海時代にアメリカ大陸発見を成し遂げ、ヨーロッパによるアメリカ大陸の植民地化のきっかけを作ったクリストファー・コロンブスの生涯を見てきましたが、最後に、コロンブスにまつわる興味深い6つの話を紹介しておきましょう。, 一般的に知られる「クリストファー・コロンブス」という名前は、彼の名前を英語表記した「Christopher Columbus」を発音した名前。, しかし、イタリアのジェノヴァで生まれたことを考えると、本来は「Cristoforo Colombo」と表記し、その読み方は「クリストーフォロ・コロンボ」となり、また、スペインにいたことを考えると、その表記は「Cristóbal Colón」であり、読み方は「クリストーバル・コロン」となります。, ただし、コロンブスの素性に関しては歴史的資料が少なく、「ジェノヴァ人」であるかどうかも不確かなため、最も正しい名前の表記や読み方については謎だったりします。, ポルトガルの王などあちこちから援助を受けようと試みましたが、ヨーロッパの多くの統治者らはコロンブスを変人と思い、見向きもしなかったのです。, また、最終的には1491年にスペインの国王夫婦に謁見することが叶っていますが、それまでコロンブスは、スペインからの資金援助を得るために、実は何年間もスペイン王宮の周りをうろついていたとさえ言われます。, そして、スペイン王室から旅の許可が得られたという知らせをコロンブスが聞いたのは、説得を諦めて1492年にフランスへ向かったまさにその時でした。, かの有名な1492年の航海で、コロンブスは陸地を最初に見つけた者に金貨を報酬として与えると約束していました。, そして実は、ロドリゴ・デ・トリアナという船員が、コロンブスが後にサン・サルバドル島と名付けた、現在のバハマにある小さな島を1492年10月12日に最初に見つけたと言われます。, コロンブスは、「ロドリゴが島を発見した前の夜に自分も同じ島を見つけていた」と主張。, クリストファー・コロンブスはとても信心深く、自分は発見の旅をするために神によって選ばれし者であると信じていたようです。, さらに、後年、コロンブスはどこへ行くにもフランシスコ修道会の修道服を着るようになり、裕福な提督というよりも、どちらかというと修道士のような姿をしていたと言われます。, しかも、3回目の航海の時、オリノコ川が南アメリカ北部の大西洋に流れ出るのを見たとき、コロンブスはそれをエデンの園だと思い込むようになったとも言われます。, アジアへの新航路を探していたコロンブスは、死ぬ間際まで、自分が見つけたのは「アジアへの新航路」であり、また、見つけた土地は「アジアの一部」だと言い続けていました。, コロンブスが見つけた土地がアジアではないことを示すたくさんの客観的事実はあったものの、彼は日本や中国、モンゴル帝国皇帝の宮殿が、発見された土地の近くにあると信じ続けていたのです。, そしてついには、「地球は洋梨のような形をしていて、アジア大陸が見つからなかったのは膨らんだ形のせいだ」という馬鹿げた理論まで展開するようになっていきました。, コロンブスは1506年にスペインで亡くなり、その遺骨は1537年にドミニカ共和国のサントドミンゴに送られました。, その後、1795年にハバナに送られ、1898年にはスペインに送り戻されたとされています。, しかし1877年、サントドミンゴでコロンブスの名前の付けられた遺骨の入った箱が複数見つかったのです。, この結果、現在はスペインのセビリアとドミニカ共和国のサントドミンゴの2つの都市が、コロンブスの遺骨を所有していると主張しています。, クリストファー・コロンブスは、確かにアメリカ大陸に到達しましたが、人類で初めてアメリカ大陸を発見したわけではありませんでした。, しかしコロンブスの旅は、その後のアメリカ大陸を大きく変えるきっかけとなり、現在の世界を形作る歴史的に重要な分岐点の一つだったのです。, 当サイトは当サイトのメイン管理人である「ハリマン」が、内向きになりつつある日本人をもう少しだけ外向きにしたいという思いで運営しています。 さらに詳しくは下のホームボタンをクリックしてください。.