二宮忠八・・・設計はライト兄弟より早かった、航空機の先駆的研究者 2013年12月7日 英傑・名将の知られざる実像 @club2 二宮忠八は明治時代の航空機の先駆的研究者で、実際の飛行成功の偉業はライト兄弟に譲ったが、飛行機の設計はこの二宮忠八が早かった。 お客様の許可なしに外部サービスに投稿することはございませんのでご安心ください。, 建築士は自分で設計した家の写真画像を 施主には無断で営利目的に使用してもいいのでしょうか?, http://www.wright-brothers.org/Adventure/Worksho …, http://www.aviationshoppe.com/catalog/1903-wrigh …. ライト兄弟がノースカロライナ州のキティーホークにあるキルデビルヒルズで12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」で飛ばした飛行機は最初のフライトが12秒36、6秒、人類初の飛行履歴としてこの日がマークされた。 ©Copyright TRANS.,Inc..All Rights Reserved. ライト兄弟が飛行機を発明したきっかけは何だったの? 今や飛行機(ひこうき)というと、あたり前に飛行機に乗って国内や海外に短時間(たんじかん)で移動できる手段として、とても便利な乗り物にです。 スポンサードリンク 「空を飛びたい」という願いから、鳥の翼のようなものを人の両腕(� ・タウンワークマガジン記事監修 こうした先人達のこころみは、ほとんどがグライダー飛行を成功させようという挑戦でした。. 「ライト兄弟」は世界で初めて有人飛行を成功させた人物として知られていますが、実は彼らより先に初飛行に成功したと名乗るライバルも存在します。「ライト兄弟」の初飛行に関する逸話や知られざるその職業、ライバルとの争いの果てについてなど、「ライト兄弟」の生涯について紹介します。, 「ライト兄弟(Wright Brothers)」は、世界で初めて、動力飛行機を発明し、飛行に成功したパイロットの兄弟「ウィルバー・ライト(Wilbur Wright、1867年~1912年)」と「オーヴィル・ライト(Orville Wright、1871年~1948年)」の二人を指します。, 彼らにはほかにも、二人の兄と一人の妹がいますが、「ライト兄弟」と呼ばれるのはウィルバーとオーヴィルの二人です。, 飛行機の開発で有名なライト兄弟ですが、その職業は自転車屋です。彼らは、自転車店の経営で飛行機の研究に必要な資金を稼ぐとともに、自転車の技術を飛行機研究にも応用したとされています。, 当時、すでに飛行船が開発されていたものの、「空気よりも重い」動力飛行は研究途上にありました。その第一線で研究をしていたオットー・リリエンタールの死去を機に、ライト兄弟は飛行機開発に乗り出したと言われています。, ライト兄弟はどのようにして飛行機開発にたどり着いたのでしょう。飛行機発明までの経緯を簡単に紹介します。, ライト兄弟が飛行機開発に成功した背景には、科学的な視点からの分析と確かな技術力がありました。グライダーを用いた実験の回数も、ほかの研究者と比べものにならない程多く、そのデータが開発の大きなカギとなったようです。, 同時に、度重なる実験によって、ライト兄弟自身の飛行技術が向上したことも成功理由のひとつです。グライダーの操縦方法から研究し、パイロットとして操作できるようになってから飛行機に動力を追加するという手法は、「飛行機本体の開発」に主眼を置いたほかの研究者とは一線を画すものでした。, 度重なる実験の結果、ついに1903年、ライト兄弟はノースカロライナ州で初飛行に成功します。記念すべき有人動力初飛行を成し遂げたのは、12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」です。, 第一回目の飛行では、12秒間でおよそ37メートルの飛行に成功し、同日に計4回の飛行に成功しています。初飛行はノースカロライナ州でしたが、ライト兄弟が拠点としていたのはオハイオ州のデイトンでした。そのため、オハイオ州の誇り・英雄としてもしばしば紹介されます。, 「空気よりも重い機械」を飛ばせることに成功したライト兄弟は、その栄誉ゆえにトラブルにも巻き込まれます。飛行機が兵器として注目を集めていたため、ライト兄弟の技術力は嫉妬や争いの種となったのです。その最大のライバルとして語られているのが「グレン・カーチス」です。, グレン・カーチスは、ライト兄弟からの特許侵害の警告書を無視し、飛行機の制作を続け、裁判となっています。これにより、カーチスは敗訴し一度は会社を倒産していますが、その後の控訴審で判決が覆り、再度会社を興しています。, さらに、カーチスはライト兄弟のパイオニアとしての地位を揺るがすために、ライト兄弟以前に開発されたラングレーの「エアロドーム」を再開発し、ラングレーこそが最初の有人飛行に成功した人物だ、と主張したこともあります。ただし、カーチスが再開発した「エアロドーム」は原型をとどめない程改良されたもので、のちにカーチスの主張は不当と認められました。, ライト兄弟は世界ではじめて、動力飛行に成功した兄弟として知られていますが、実は、「世界初」かどうかについては「グスターヴ・ホワイトヘッドが先だった」とする説もあります。, グスターヴ・ホワイトヘッドは、コネチカット州の航空技師で、ライト兄弟より早い1901年8月に自分で開発した飛行機を飛ばすことに成功したというのです。この「世界初の有人飛行はグスターヴ・ホワイトヘッド」とする説は否定する専門家も多い一方で、完全に否定しきれない部分もあることから、今なお議論となることがあります。, 近年では、2014年のコネチカット州の州議会が、「グスターヴ・ホワイトヘッドこそが世界初の有人飛行に成功した人物」とする決議案を採択しています。, ライト兄弟は、世界ではじめて、動力飛行機の有人飛行に成功した人物です。数多の実験とその分析から、科学的にも技術的にも高度な研究を繰り返したことが、彼らの成功につながったとされています。その一方で、世界初の有人飛行はグスターヴ・ホワイトヘッドとする説もあります。ライト兄弟と併せて、グスターヴ・ホワイトヘッドも忘れてはならない人物です。. ・文星芸術大学キャリアガイダンス講師. ライト兄弟の「ライト・フライヤー」の設計図のデータが欲しいです。写真でも良いので、どこか画像が見られるサイトなど知っていましたら、教えて欲しいです。出来れば大きく、細かい所まで見られるようなサイズがいいです。よろしくお願 自由気ままに空を飛ぶ鳥を見て「気持ちいいだろなぁ~」と羨ましく思う時があります。ジェット機が空高く飛んでゆく雄姿を見ると、飛行機を考えた人はどうやって作り上げたのだろうって気になりませんか?今回は、ライト兄弟と飛行機の歴史に少しだけ触… 雑学カンパニーは「日常に楽しみを」をテーマに、様々なジャンルの雑学情報を発信しています。, 1903年、人類は歴史に新たな1ページを記した。アメリカ人のライト兄弟が、世界初の有人動力飛行を成功させたのである。しかし、最初に人類発の有人動力飛行を成功させたのは、兄弟のどちらだったのだろうか。, この記事では、ライト兄弟についての雑学と、ライト兄弟より以前に大空を翔けることに夢を捧げた人物についてご紹介する。, 1903年、ライト兄弟はエンジンを搭載した動力飛行機「ライトフライヤー号」で、世界初の有人飛行に成功した。, その偉業を達成したのが、1867年生まれのライト家の三男、ウィルバー・ライトと、1871年に生まれのライト家の五男、オーヴィル・ライトである。この兄弟のうち、人類発の飛行を成し遂げたのはどちらが先だったのだろうか。, 結論からいうと、飛行機に初めてのパイロットとして搭乗したのは、弟のオーヴィル・ライトである。初飛行の際、兄弟は乗る順番をコインで決め、その結果、弟のオーヴィルが先に乗ることになった。, 最初に空を飛行したオーヴィルの飛行記録は、12秒・距離36.6メートルだった。その後、兄・ウィルバーがこの日の最長記録となる、飛行時間59秒、距離260メートルをたたき出した。記念すべき人類初の動力飛行はこうして打ち立てられたのだ。, なお、兄は物事に慎重な性格であり、弟は冒険心に満ちた性格だったようだが、お互いを補完しあう関係だったからこそ、この偉業を達成できたのだろう。, ちなみに、ライト兄弟が人類初の有人動力飛行を成功させたという点については、異論も挙がっている。ドイツ生まれのアメリカの飛行技師、グスターヴ・ホワイトヘッドという人物が、1901年に初飛行を成し遂げたという説も存在するのだ。, ライト兄弟が人類発の有人動力飛行を成功させる前に、飛行原理を考案した人物がいたことをご存知だろうか。それが『空中航行論』の著者であるイギリスの航空工学者、ジョン・ケイリー卿である。, 彼は「航空学の父」と称されるほど、航空業界の先駆的な人物として知られている。ライト兄弟が人類発の有人動力飛行を成功させる約50年ほど前のことである。, ジョン・ケイリー卿は、有人グライダーの実験や、固定・回転翼機(プロペラのこと)などを考案して、模型まで製作した。, 1849年、少年を乗せてグライダーによる滑空に成功。1853年には大型のグライダーを製作し、関係者の操縦によって100メートル以上の飛行に成功するなどの功績を残している。, 1853年に飛行したそのグライダーのレプリカが、現在、ヨークシャー航空博物館に展示されているという。, 日本にも、ライト兄弟より以前に飛行機の原理を考案した人物がいる。それが、1866年、現在の愛媛県八幡市に生まれた、二宮忠八(にのみやちゅうはち)である。, 1889年に二宮は陸軍在軍中に「飛行器」を考案し、その翌年にゴム製の動力で駆動する「模型飛行器」を製作している。これは風を受けとめるカラスの翼の動きから着想されたものだった。, 二宮は有人型「飛行器」の実用を、軍に2度も却下されるなど、飛行器開発の理解を得ることはできなかった。そして、計画は幻のまま終わってしまう。, なお、「飛行器」の模型を製作した2年後、ライト兄弟の偉業を新聞で知ることとなった忠八は失望し、模型を破壊したといわれる。以後、飛行機の開発からは離れていった。, 1954年、英国王立航空協会が「玉虫型飛行器」の模型を展示し、「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」として紹介されたとのエピソードも残っている。, 近年では「日本の航空機の父」として評価が高まりつつあるようだ。なお忠八は、晩年飛行機事故で死去した多くの人を弔うために、京都府八幡市に飛行神社を創建し、自ら神主にもなっている。, また香川県仲多度郡まんのう町には、飛行原理の着想を得た土地との縁から「二宮忠八飛行館」が建てられている。, ライト兄弟にまつわる雑学と、飛行機の開発に夢をかけた2人の人物についてご紹介してきた。ライト兄弟が人類で初めて有人動力飛行を成功させた際、最初に飛行を試みたのは、弟のオーヴィル・ライトだった。, また、彼らより以前に、空を翔けることを夢見たジョン・ゲイリー卿と二宮忠八という人物が飛行機開発に力を注いでいたことがわかった。大空を翔けることに力を注いだ男たちを知ると、偉業の有無にかかわらず、夢を追うことの美しさと大切さを教えてもらった気がした。, ホワイトヘッドはきちんと飛行記録を残していなかったため、歴史の影に隠れてしまったのだ…。, ジョン・ケイリーさんの存在がなかったら、もしかするとライト兄弟も空を飛べなかったかもしれないっすね!, 軍に自らの案を却下され、ライト兄弟が飛行に成功してしまったわけだ。飛行機に関わるのは辞めたくもなるだろうな。, なにかとライト兄弟の偉業が取り上げられがちっすけど、その陰で他の人たちも空への挑戦をしてたってことを忘れないようにしたいっすよね。, そうだな。偉業を成し遂げるというのはすごいことだが、挑戦するということに価値があるということも頭に入れておきたいものだ。. ライト兄弟が子供の頃に、お土産にもらったペノーの模型飛行機は,彼らが空をめざすきっかけに なったといわれている。 現在の飛行機の形態に落ち着くまでにいろいろな飛行機械が試された。 社長秘書や中途採用の現場を経て、今では2児の母。ビジネスに欠かせない知識からコミュニケーションに役立つ便利ネタまで、わかりやすく情報提供します。. こうした先人達のこころみは、ほとんどがグライダー飛行を成功させようという挑戦でした。 グライダーが墜落せず滑空するために理解しておくべき航空力学と、それに基づいたグライダーの設計は、ライト兄弟の成功の土台であるといえます。 グライダーが飛躍的に発展したのは19世紀前半のこと。その立役者はジョージ・ケイリーというイギリス人。 彼は若いうちから航空力学に関する実験を行っており、空中で翼にかかる力 … こちらの置物の作者分かりますか?どこかで見たことあるような気がして、気になって仕方ありません. ライト兄弟がノースカロライナ州のキティーホークにあるキルデビルヒルズで12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」で飛ばした飛行機は最初のフライトが12秒36、6秒、人類初の飛行履歴としてこの日がマークされた。 二宮忠八は明治時代の航空機の先駆的研究者で、実際の飛行成功の偉業はライト兄弟に譲ったが、飛行機の設計はこの二宮忠八が早かった。あくまでも仮定の話だが、軍部が忠八の上申書を受理し、早くに航空機開発・研究に着手していたら、その後の日本の戦備、とくに空軍の力は当時でもより進んだものになり、違った歴史を刻み込んでいたかも知れない。忠八の生没年は1866(慶応2)~1936年(昭和11年)。, 二宮忠八は伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(現在の愛媛県八幡浜市矢野町)で商家の四男として生まれた。, 忠八は21歳のとき、丸亀の歩兵第12連隊に看護卒として入営。1889年(明治22年)の演習中に鳥が飛ぶのを見て飛行機の研究を志し、ゴム動力による紙製模型飛行機などを試作。そして、このゴム動力の鳥型飛行器の飛行実験に成功したことで、「人間が鳥のように飛ぶことができるかも知れない」という思いは確信に変わった。, 忠八はさらに2年間研究を積み重ね、1893年、人を乗せて飛ぶことができる両翼の長さが2・の玉虫型飛行器を完成させた。残る問題は飛行するための動力だけになった。ただ、この動力の確保が彼にとって極めて“重い”課題として残された。そして、思いもよらぬ“挫折”につながっていくのだ。, 1894年、日清戦争が勃発。忠八もこの戦争に従軍する。従軍中、飛行機の必要性を痛感した彼は、設計図をつけて飛行機研究の重要性を述べた上申書を3度にわたって提出したが、ことごとく却下された。失望した彼は1898年、軍を除隊した。資力を蓄えてから独力で飛行機を完成させるためだ。 1871年8月19日 - 1948年1月30日, 2人は牧師ミルトン・ライト(1824年 - 1917年)の息子として生まれた。一家には他に3人の兄妹(長兄ルクラン(1861年 - 1920年)、次兄ローリン(1862年 - 1939年)、妹キャサリン(1874年 - 1929年))がいたが、母スーザンは結核により1888年に早逝した。尚この他にもう2人の兄弟がいたが夭折している(厳密には7兄弟と考えられる)。, 兄弟は生涯の大部分をデイトンで過ごした。グライダー実験と最初の動力飛行をノースカロライナ州キルデビルヒルズで済ませた後の飛行活動は、現在ライト・パターソン空軍基地の敷地内にあるハフマンプレーリー(一般見学可能)を中心に行われた。だがウィルバーの晩年には再びキルデビルヒルズで実験を行った。, 1909年に兄弟はライト社(英語版)(英: Wright Company) を創業するが、ウィルバーの死後の1915年にオーヴィルは会社を売却している。その後会社はグレン・L・マーティンと合併し、今のロッキード・マーティンとなった。, ウィルバーは1912年、腸チフスのためデイトンの自宅で死去した。オーヴィルは36年後、心臓発作のため同じくデイトンで死去した(奇しくも彼の翌日にはジョン・T・ダニエルズ(下記)が死去している)。2人はデイトンのウッドランド墓地(英語版)に長兄ルクラン[注 4]を除く家族と共に埋葬されている。2人とも生涯独身だった。, キャサリン・ライト(晩年の1926年11月20日に結婚してキャサリン・ライト・ハスカルとなる)は、ライト兄弟の唯一の妹にして、彼らのアシスタント的な存在だった。1889年に母親が早逝したとき、彼女は家族では唯一の女性として世帯の責任を引き継いだ。オーバリン大学(英: Oberlin College)を卒業後、スティール高校(英: Steele High School)で教師として働く。家事の手伝いをするために、彼女は何十年も家族と一緒にいたメイド、キャリー・カイラーを雇った。ウィルバーとオーヴィルはキティーホークで家を離れ、その後ヨーロッパとワシントンDCで時間を過ごすと、キャサリンは家を離れ、家族と故郷のニュースと並行して彼らに常に書簡を書いた。彼女は定期的に書簡を送っていないときに彼らを叱って、ヨーロッパにいるときに「気晴らし」を警告した。ウィルバーはキャサリンにオービルと一緒にフランスに行くように頼み、1909年にポー、ピレネー=アトランティックで加わる。彼女はすぐに社会的な場面を支配し、悪名高い恥ずかしがる兄弟よりもはるかに魅力的になっている。ウィルバー死亡後の1912年、ライトカンパニーの役員になるが、同社は1915年にオーヴィルによって売却された。, 1926年11月20日にヘンリー・ジョセフ・ハスケル(英: Henry Joseph Haskell)と結婚するが、オーヴィルは式典に出席することを拒否。彼女の結婚2年後、キャサリンは肺炎に罹った。 オーヴィルが知ったとき、彼はまだ彼女に連絡することを拒んだ。 彼らの兄ローリンは彼に彼女を訪問するように説得し、彼女が死んだときに彼はベッドサイドにいた。キャサリンは1929年3月3日に54歳で死亡した。, 時は19世紀末、すでに陸には蒸気機関車や車が走り、海や川では蒸気船が幅を利かせ、そして最初の有人飛行をしたモンゴルフィエ兄弟に始まる熱気球から派生した飛行船が存在した。しかし、「空気より重い飛行機」の動力飛行は全く発展途上にあった。, 唯一の手掛かりとしてジョージ・ケイリーのグライダーを基にオットー・リリエンタールによって研究が進められていた。しかし当時はまだハイラム・マキシム等、多くの研究家は正しい飛行のための理論を確立するに至らず依然として暗中模索が続いていた時代だった。, 1896年のリリエンタールの事故死後、これを皮切りにライト兄弟は飛行機を完成させることを考え、これが史上初の動力飛行成功へ向けてのきっかけとなり、時代を新たに拓く成功への一歩となった。, 兄弟は1903年12月17日にノースカロライナ州キティホーク近郊にあるキルデビルヒルズにて12馬力のエンジンを搭載したライトフライヤー号によって有人動力飛行に成功[3]。兄弟が初飛行に成功した時の写真は、2人に撮影を頼まれた観客の一人、地元の海難救助所員のジョン・T・ダニエルズが撮ったもので、合計4回の飛行が試みられた。, 見落とされがちであるが、この飛行は強風が吹く(理由は後述)彼らの実験場で風に向かって飛んだ記録であることに(もしそれ以前の「跳躍」とみなされている他者による実験と比較する時などには)注意が必要である。対気的な距離は対地的な距離よりももっと長い。, オーヴィルが写真技術を持っていたため良い記録写真が多く撮られていたが[4]、1913年のグレートマイアミ川の洪水でかなりの数の乾板が損傷した。残ったものは、アメリカ議会図書館のライト兄弟アーカイブ[5]に保管されている。, それまでの他者による飛行の試みの多くが跳躍かその延長のものでしかなかったのに対して、主翼をねじることによって制御された飛行を行ない、飛行機の実用化に道を開いた。しかし、当初世間はこれを理解しないどころかむしろ冷淡であり、国内では様々な事情から特許権関係の問題を突きつけられたりさえしていた。, ライト兄弟は実験に成功したが、世間はこれを信用をしないばかりかこぞって反発した。サイエンティフィック・アメリカン、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、アメリカ合衆国陸軍、ジョン・ホプキンス大学の数学と天文学の教授サイモン・ニューカムなど各大学の教授、その他アメリカの科学者は新聞等でライト兄弟の試みに「機械が飛ぶことは科学的に不可能」という旨の記事やコメントを発表していた。, 逆に後年ヘリコプターの実用性が議論されるようになった時期、オーヴィルは1936年の書簡中で「ヘリコプターには根本的な問題がある」、「ヘリコプターの開発には資金がかかりすぎる上に商用性もおぼつかないので誰もとりかかられないだろう」と書いている。, それまで多くの研究者の飛行への挑戦がことごとく失敗を重ねて来たのに対し[注 5]、ライト兄弟は当時としては極めて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明し、また同時に技術的工学的に着実な手法を取った。風洞実験によって得たデータを元に何機かのグライダー試作機を作成し一歩一歩堅実に飛行機の改良を行った。研究の初期には、当時の飛行機開発の最先端を行っていたサミュエル・ラングレー教授から研究資料の提供を受けていたりした。, グライダーによる実験の回数もリリエンタールらに比べてはるかに上回り、多くの実験データを収集するとともに飛行技術を身につけることができた。グライダーを基礎にまず操縦を研究して、自らそのパイロットになってから動力を追加するのが彼らの戦略であり、他者のプロジェクトは動力機体の製作しか眼中になかったと本人たちが述べている[6]。, 兄弟の成功に先立つ1903年10月7日と12月8日の2度、兄弟も教えを請うたサミュエル・ラングレー教授の飛行機エアロドロームは飛行テストを実施したが、どちらも機体は飛び立つことなく川へ転落した。スミソニアン協会会長の地位にあり、アメリカ政府援助のもと主導した実験の失敗はラングレー晩節の評価を地に堕とした。ラングレー教授のプロジェクトは、まず無人動力飛行機で実験を行い、次に有人動力飛行機を飛行させるというものであり、パイロットにとっては「ぶっつけ本番」を強いられるものであった。, 飛行記録からするとオーヴィルの方が操縦に長けていたようである[注 6]。兄弟は実験回数を増やすために「安定した強風が吹いている場所」を気象台に問い合わせ、故郷から遠く離れたキティホークをその場所に選んでいた。安定した強風が必要だったのは、グライダーを凧のように繋留索で空中に固定して、安全かつ安定に実験をするためである(リリエンタールは風がどの方向から吹いてもいいように人工の丘を作った。また墜落で命を落とした)。, また、兄弟は自転車店を経営することで研究に必要な資金を自弁できた上[注 7]、自転車の技術を活用することも可能であった。例えば2基のプロペラはチェーン駆動であり、回転の向きを左右で逆にしてトルクを打ち消すためにチェーンを片方交差するなどしている。, 一方で彼らの機体は機体の前方に水平安定板兼昇降舵があるなど、安定性の面に問題もあり、実際後年の再現プロジェクトはその点で苦労している。しかしながら、安定性と操縦応答はトレードオフであり、ライト兄弟は操縦応答を最優先した飛行機で飛行してこそ、本物の飛行であるという強い信念を持っていた。そして単なる精神論だけでなく、兄弟は滑空飛行を繰り返し操縦に熟練したことによって、成功を得た。, ライト兄弟の初飛行100周年にむけて、ライトフライヤー号を復元する研究がいくつか行われたが、コンピュータシミュレーションでは姿勢が安定せずに普通に飛べず[注 8]、完成した復元機に至っては離陸すらできなかった[7][注 9]。ライト兄弟が成功したのは当日の強風[注 10]と、それをものともしない兄弟の操縦技術のおかげだという見解もある。, 「空気よりも重い機械を用いた飛行の実用技術の開発者」と裁判所にも認められたライト兄弟を待ち構えていたものは、必ずしも栄光ではなかった。, ライト兄弟の成功と飛行技術に関する特許取得は、飛行機が兵器として注目されていたこともあり、争いや妬みの対象にもなった。特に兄弟にあからさまな敵意を向ける2人の人物がいた。その1人はチャールズ・ウォルコットである。有人動力飛行に失敗したラングレーの後を継いでスミソニアン協会会長の地位に就いた彼は、民間人であるライト兄弟の偉業を決して認めず、スミソニアン博物館航空史に「ライトフライヤー号」を一切展示しなかった。もう1人はグレン・カーチスである。腕の良い飛行家だった彼は、航空会社を設立し、何かとライト兄弟と特許に関して係争した。しかし、冒頭の裁判所の判断もあり、ことごとく敗訴していた。, カーチスはライト兄弟のパイオニアたる地位を否定すれば特許について有利な立場になれると考えていた。カーチスはウォルコットと手を結び資金援助を得て、1914年5月と6月にラングレーのエアロドローム再飛行実験を行ない成功した。ところが、実はエアロドロームにはカーチスの手により35箇所もの改造が加えられており、もはや全くの別物になっていた。実験結果を受け、ウォルコットはスミソニアン協会年次報告に「初めて飛べる飛行機を作ったのはラングレー」との声明を発表、丁寧に1903年当時の形状に戻したエアロドロームを、人間を乗せて飛行可能な世界初の飛行機と表示してワシントン国立博物館に展示した。すでに兄を亡くしていた弟オーヴィルは抗議したが協会は一切無視、それどころか年次報告に執拗なまでに声明文を繰り返し掲載した。そのため、一般にも世界初飛行に成功したのはラングレーだと思い込む者が増えた。, このような不毛な争いの最中に、飛行技術は急速に進歩していき、ライト兄弟の持つ特許や飛行技術は陳腐化していった。一例として、ロール制御の手段としてのたわみ翼は、補助翼というより完成度の高いものに進歩していた。1908年にはフランスのシャンパーニュで、世界最初の飛行大会が開催された。この大会ではアンリ・ファルマンが飛行時間、ユベール・ラタムが高度、ルイ・ブレリオが速度の各部門の優勝者となった(今日の飛行機の形態が完成したのは、彼らの機体であった)。しかしライト兄弟は優勝はおろか入賞さえ果たせない惨めな成績で終わった。そしてグレン・カーチスもこの大会に出場し、優勝こそ逃すもめざましい成績を示した。この大会は、もはやライト兄弟が、凡百の飛行家のふたりでしか無い事を示した。, ライト兄弟の機体には、遅れて登場した他の飛行機と比べて大きな欠点があった。操縦応答性を優先し安定性が極めて低いこと。離陸の際にレールを敷く必要があること。プロペラがチェーン駆動であるため、エンジン出力向上に限界があったこと。1910年にライト兄弟はライトB型を完成させる。これは水平尾翼を機体後部に移して安定性を高め、車輪を装備しレールを敷く必要を無くしたものであったが、チェーン駆動だけは相変わらずであった。1911年9月17日、カルブレイス・ペリー・ロジャーズという飛行家が、このライトB型を小型化したEX型を駆って、初のアメリカ大陸横断飛行に挑んだ。しかし何度も墜落を繰り返し、目的地にたどり着いたのは11月5日。部品交換と修理を繰り返した結果、出発時と同じ部品は尾翼と主翼を支える支柱のみで、出発時と同じ機体とはとても言えない内容であった。そんな中、失意と法廷闘争の疲労もあり、ウィルバーは1912年、腸チフスで死去した。ウィルバーの死の4年後、オーヴィルは飛行機製造から身を引く。, しかし、ライト兄弟が世界最初の有人動力飛行を行ったことを、高く評価する者も存在した。陽の目を見ることなくマサチューセッツ工科大学の倉庫に保管されていたライトフライヤー号に思わぬ申し出が届いた。ロンドンの科学博物館が展示したいとオーヴィルに希望を寄せてきた。スミソニアン協会名誉総裁へ送った、エアロドローム再飛行実験に対する調査要請の書簡が無視されたのを最後と見定め、オーヴィルはロンドンからの申し入れを受諾。1928年ライトフライヤー号はイギリスに渡った。, イギリス旅行に来たアメリカ人は「何故ライトフライヤー号がこんな場にあるのか?」と驚いた。それはやがて世論となり、スミソニアン協会もいつまでも無視する訳にはいかなくなってきた。ウォルコットの死後、1928年に会長職を継いでいたチャールズ・アボットはオーヴィルと面談し、ライトフライヤー号をアメリカ合衆国に戻すよう要請した。それに対するオーヴィルの条件は、ただ「歴史を正しく修正する」ことのみであった。, アボットは、玉虫色の妥協点を見出そうとしたが、オーヴィルは決して譲らず、1942年ついにスミソニアン協会は声明を発表。ライト兄弟の偉業を認め、1914年の実験を否定し、最後の部分では兄弟に陳謝した。これを受け入れ、オーヴィルはライトフライヤー号をアメリカに戻すことに合意した。, その後、第二次世界大戦などの混乱もあり、ライトフライヤー号がアメリカに戻ってワシントン国立博物館に展示されたのは初飛行成功からちょうど45年経った1948年12月17日であった。盛大な展示除幕式が行われたが、オーヴィルはすでに同年1月30日に76歳で死去していたため参加することはできなかった。, 晩年のオーヴィルには、飛行機を発明したことを後悔する旨の言動がある。1942年にオーヴィルはヘンリー・フォードに対して、自分が動力飛行機を発明したことを悔いる内容の手紙を送り、1943年にアメリカ特許局設立150周年記念行事に参加した際には、最近100年間の十大発明は何かと問われ、あえて飛行機をその中から除外している[8]。第二次世界大戦に関し、飛行機がもたらした破壊を残念に思うと述べた[9]。, オーヴィルは、世界で初めて飛行機事故を起こした人物としても知られている[注 11]。, 1908年9月17日、バージニア州アーリントン郡の陸軍基地であるフォート・マイヤー(英語版)でオーヴィルが操縦するライトフライヤーがデモフライト中に墜落。同乗していたトーマス・セルフリッジ(英語版)陸軍中尉が死亡し、オーヴィルも重傷を負った。また、セルフリッジは飛行機事故初の犠牲者となった。, 1906年頃にはアメリカ合衆国でもグライダーがスポーツとして認知されてきたが、オーヴィルは1911年にグライダーで9分45秒の滞空時間世界記録を作っている(, 飛行機の安定性と運動性は相反する性能である。ライト兄弟の製作した機体は運動性を最優先として安定性をかなり犠牲にしていた。ライト兄弟以降の飛行機製作者たちはより安定性に振った設計を行っている。近年, これ以前にも何度か復元機が製作されているが、その中にはエンジン出力をオリジナルより増して飛ばしたものもあった。, McCullough, 2015, "The Wright Brothers", Epliogue pp.