http://wikiwiki.jp/nenaiko/?%CB%C9%B6%F1%2F%A5%A8%A5%F3%A5%D7%A5%EC%A5%B9%A5%B7%A5%EA%A1%BC%A5%BA, これは、MHP2にて説明文が変更されたことが影響している。 元巨人の清水隆行は、「日本で一番どころか日米野球で対戦したどのメジャーリーガーよりも速く感じる速球を投げていた」「左打者にとっては特に球の出所が見づらくなるフォームであるためより速く感じるのでは」と話している[90]。, 2009年の時点で日本球界ではノーワインドアップモーションが主流となっていたが、山本は「かっこいいから」とワインドアップモーションを好んで使用した[91]。, 独特のセットポジションである。最近では主流なグローブを顔から離して胸の位置で構えるスタイルは「日本で私が始まりではないか」と本人が語っている。ベルト付近にセットすると投げる時に胸までグローブを挙げる作業を行う分モーションが遅くなるという考えから、予め胸まで腕を上げる構えを行っていた。これは、モーションが速くなるという利点だけでなく、顔から離して構える分つま先に重心が移るという利点もある[92]。, 投球のテンポが悪いため、同僚だった大豊泰昭は「今日はマサだから試合が長くなるな」と思いながら守っていたという[93]。, 通算153犠打は日本プロ野球の投手史上最多[94][95]。2007年にはセントラル・リーグ公式サイトで「隠れた犠打王」として紹介されている[96]。中学時代の野球部監督角田明との対談で山本は「バント職人と呼ばれた川相昌弘さんにもお前バントうまいって誉められたんですから」、角田も「星野仙一さんもテレビでの解説でお前のバントを褒めていたよ」と述べていた[97]。しかし本塁打に関しては初打席から1209打席本塁打はなく、2014年当時で初打席からの連続打席無本塁打記録は現役では岡田幸文、松本哲也に次ぐ3位だった[98]。自身、本塁打を熱望していたが果たせずに終わり、NPBで200勝以上を記録した投手の中で、無本塁打に終わった初の選手となった。, 1988年に頭角を現して以降は先発ローテーション投手として活躍。40歳を過ぎてもなお円熟のピッチングで中日の先発投手陣の一角を任っており、数々の投手最年長記録保持者となっている。選手としての同一球団在籍記録は日本プロ野球記録を更新した。「全力で投げて速球が133km/h出なければ引退する」と語っている[99]。, 両親からは「人に迷惑をかけないのなら、好きなことをやればいい」と言われて育った山本は、子供の頃からいじめっ子ではなく、友達とケンカすることもなく、思春期に道を外れるということも無かった。山本は自身を「典型的な健全なる野球少年であった」と評している[100]。, 2009年1月24日に行われたトークショーの席にて、公称では186cm・87kgとしている身長・体重が、実際は188cm・98kgであることを明かしたが、験担ぎとして今後も変更しないことを語った[1]。, 2009年の時点では背筋力が180kgであると言っており、これは一般男性とほぼ同じレベルであった[101]。40代で背筋180kgは上位5%に入る。40代男性の平均的な背筋力は130kg程度である。, ベテランの域に足を踏み入れても登板前夜には非常に緊張する性質であったようであり、1999年ぐらいまでは半ば真剣に「でっかいハサミをもっていって、球場の電源を切ることはできないだろうか」と考えていた。そうした理由に加えて、入団当時の二軍コーチから「投げる時くらいグラブとスパイクはピカピカに磨いておけ!」と言われたこと、そして「野球の神様」を信じていることから、登板前にはバスタオルを頭からかぶり、下を向いて試合用のグラブとスパイクをせっせと磨いていた[102]。, 試合前には緊張して食事が摂れないという理由から、ナイターがある際にはホームなら午後2時30分の前、ビジターなら午後4時の前に胃に食べ物を入れていた。カレーライスなら事前にドカ食いできるという理由で、先発の前にはカレーをしばしば食しており、そのことから「山本昌がお昼にカレーライスを食べていたら、その日が先発」という公然の秘密と呼べるものが生まれた[103]。, 指先の感覚を養い綺麗な回転のボールを投げるための練習としてキャッチボールほど有効な練習方法はないと考えている。回転数の高い球を投げることができた背景にはキャッチボールを怠らなかったということがあり、自著でも自身や中日がキャッチボールを重視していたことに触れている[104]。山本がストレートにこだわったのはストレートがピンポイントで決められる唯一の球種であるという本人の考えからであり、そういうことから本人は「投手は変化球よりもストレートを投げるべきだ」という野球論を持っている[105]。ピッチャーは三振を奪うピッチングを行う方が良いという考えの持ち主であり、打たせて取るという考えは野手に多い考えであるとしている。バットに当たれば犠打や失策の可能性が出るが、バットに当てさせなければ何も起こらないという考えも持っている[106]。味方の攻撃中も試合の流れを見るので、汗をかいてもアンダーシャツを着替えなかった[107]。, プロ野球の常識は自身の少年時代と変わっていることを指摘しており、例えば山本の時代には「練習中に水は飲むな」「投手はプールに入るなんてもってのほか」「ウエートトレはしてはならない」が常識であり、このうちプールに関しては高校時代は当時の「常識」を理由に学校公認で見学が認められていた。2009年の時点でも「シュートはひじを痛める」と言われたが、山本は「ストレートを投げるヒジの動きを少し強調するだけでシュートは投げられる。逆にひねる球種の方が、よほど負担が大きいのだ」と持論を展開している。投げ込みに関してはある程度の条件付きで必要と主張しており、試合中の投球、イニング間の練習球、試合前の投球練習を含めて200球までなら「その程度は投げる」という。逆に「それ以上の数は必要なのか?と問いたい」としている。, キャンプに関しては「キャンプを開催するその無駄の中にこそ技術習得がある」「好きなことはいくらでもやれるが頑張ってやれる期間は短い」という考えから必要だと話している[108]。練習に関しては継続力が重要だと主張しており、言い換えるとほんのちょっとした努力をこつこつと続ける力が欠かせないという。現に山本は高校1年生の頃から2009年の時点で30年以上に渡って2kgのダンベルを左200回、右100回上げ下げするというごくささやかなトレーニングを先発の前日などでもない限り毎日欠かさず行っていることを明かした[109]。練習には観察力が必要であり、例えば学校の部活の下級生なら先輩をよく観察し、補欠ならレギュラーとの違いをよく考えてみる必要があると主張している。かつてのチームメイトであった井端弘和などは、あるレベルの集団に入ったらいい意味で「なじむ」性質の選手であり、それは観察力に行きつくという[110]。, ライバル関係については自身の危機感を煽ることやはりあって目標をステップアップさせるためにも必要だと主張している。ライバル同士の選手に年俸で水を開けられたらその選手同士はお互いに疎遠になるのが自然であり、年俸で水を開けられてなお仲良くすることは「その方がおかしい」としている[111]。, メジャー優位論に異を唱える人物でもあり、メジャーを志す人間については間違っていないと但し書きをした上で「僕が目指してきた野球の最高峰は『日本』である。それは声を大にしていいたい。そこでやってきた、結果を残してきたという自負もある。だから行きたいと思ったことはないし、行った人間を『うらやましい』と思ったこともない」と話している。「自身がメジャーリーガーになったらどうなったか?」という質問に関しては「きっと大成しなかった」と答えており、中日でいいコーチ、いいトレーナー、いいスタッフと知り合った結果、200勝までたどり着いたと自著では説明している[112]。, 1990年に山本保司が中日に入団して同姓選手が2人になり、スコアボードや新聞などの略表記[注 10]が「山本昌」「山本保」の表示で区別をされるようになっていた。1995年オフに保司が千葉ロッテマリーンズにトレード移籍したため、「山本」姓は1人だけになって区別する必要はなくなったが、「山本昌」になってから最多勝利などを獲得したことから本人は「昌」を取られることを拒否し、験を担いで1996年より登録名を山本昌(姓と名の区別がない表記)としていた。その後も引退まで登録名は変更されず、引退後の野球評論家活動も「山本昌」名義で行っている。, なお、後述のラジコンレースに出場する際は本名が登録されており、レース公式サイト上では「山本 昌広」「山本 昌」[注 11]の表記が見られる。, 1984年の入団時より一貫して「34」の背番号を付けていた。「34」は日本球界において左投手の代名詞の一つであり、また同年20番に変更した小松辰雄が着けていた背番号でもあったが、山本に充てられたのはその時点での空番号がドラフト指名順に割り振られたためである(1位藤王康晴:背番号1、2位仁村徹:背番号24、3位三浦将明:背番号26)。その後活躍が認められ、球団からかつて松本幸行が着けていた中日左のエースナンバーとされている21への変更を打診されるが、「この番号が自分のプロ生活の全てを知っているから変えたくない」と拒否した[113]。, なお、同一背番号を着用した選手としては、プロ野球史上最長(32年間)である[114]。コーチ・監督時代を含む同一背番号の着用に関しては王貞治が巨人時代に背番号1を30年間(1959-1988)着用していたが、2013年に王の記録に並び、2014年シーズンをもって単独最長記録として更新された[114]。, また、入団当時からチームも背番号も変わらずに30年以上現役を続け、現役晩年の衰えも他の選手に比べるとあまり著しくなかった様子から(球界の)「生きた化石」「シーラカンス」と呼ばれることもある。中日には和田一浩や岩瀬仁紀ら、40歳を超えながらも主力として活躍するベテランが目立っていた中、山本昌は中でも特に目立った存在と言える。長く現役として活躍し続けているために、スキージャンプの葛西紀明、ゴルフの青木功、大相撲の旭天鵬とともに「レジェンド」と呼ばれるようになる。2014年新語・流行語大賞で「レジェンド」がトップテン入りした[115]。, 前述したように、現役引退後の永久欠番制定を固辞した[76]ため、自身と入れ替わる格好で入団した福敬登が2016年から背番号34を着用していた。その後、2018年に故障の治療のため育成選手登録に切り替えられ、背番号を規定により3桁に変更する関係上、暫定的に234に変更し、7月19日に支配下登録された際に再び背番号34を着用している[73][74]。, 山本の現役時代に中日は日本シリーズに1988年、1999年、2004年、2006年、2007年[注 12]、2010年、2011年[注 13]の7回進出し、その中で2007年と2011年の2回を除く計6試合に登板したが、一度も勝ち投手になれなかった。, プライベートの山本は多趣味なことで知られるが、中でも特に有名なのがラジコンである。ラジコンを始めたきっかけは、1995年に膝を痛めた際、昼前にリハビリが終わって暇つぶしに街に出た時、ラジコンショップでラジコンを見つけて「面白そうだ」と思い、始めたことによる[116]。ラジコンショップにはシーズン中でも1週間に1度はかならず顔を出し、地元名古屋で開催されるレースにはシーズン中(ただし、リーグ優勝が確定し、クライマックスシリーズ開催を待つ期間)でも積極的に参加を重ね、これまでに数々の優勝を経験している。その腕前は玄人にも一目置かれる確かなもので、2002年には全日本選手権のEPツーリングカースポーツクラスで4位に入賞した[117]。, ラジコン好きが高じて、親交のあるラジコンメーカー「ミワホビー」とシャーシモデル「YM34」を共同開発し、一般向けに販売した[118]ほか、同僚の山﨑武司とともに「山山杯」と銘打った競技大会を開催した。毎年盛況を博した山山杯であったが、2006年のオフシーズンに「いや、申し訳ないんだけど、もう10年も続けたでしょう。だから今年はひと区切りということでね」と休止した。末期の「山山杯」は、開催4日前から主に日本の参加メーカーと専属レーサーのセッティング等準備が入る、世界チャンピオンがタイから参戦する等、最早ラジコン界におけるトッププロによる世界大会に近い大会になっていた[119]。2009年の「200勝記念レース」にもラジコン世界チャンピオン経験者の広坂正美らが参加している。ラジコンを操作する時の構えは投球前の構えとほとんど同じである。, プロ野球を引退後の2017年には、自身初の冠番組「山本昌のラジ魂道場」がフジテレビONEで放送される。また、2018年には12年ぶりに「山山杯」が開催され、2019年と2020年にも開催された[120][121]。, 山﨑と同じく国内外問わず多数の高級車を所有している。2012年現在、外車だけでもランボルギーニ・ミウラP400SV、フェラーリ・F512M、メルセデス・ベンツ、BMW・7シリーズの4台を保有していた。現在の愛車は前述のランボルギーニ・ミウラP400SVとポルシェ・ボクスター、BMW・7シリーズを所有している[122]。中でもランボルギーニ・ミウラは1971年生産の車体で41年が経過した時点でも走行可能と、極めて良好なコンディションである[123]。これは「車に見合う、恥ずかしくない選手になれるように」との本人の思いもある。車の収集のきっかけは結婚してから妻が車を必要に思って日産シルビアを購入したところから始まり、金のない二軍時代は必死に外車雑誌を読み漁った。1993年オフには念願かなってフェラーリを購入したが、この時山本は免許すら持っていなかった[124]。, 甲虫集めも趣味で、世界の甲虫を集めて息子と一緒に飼育していた。近所の山へ早朝に出かけ、秘密のスポットでカブトムシやクワガタを獲ったりしているとされる。武田一浩曰く「こんなにデカイ体してカブトムシの話したら止まらないんだから」とのこと。最盛期ではオオクワガタを50頭は飼っていたといい、飼っていたオオクワガタの幼虫が体重30gを超えたこともあるという[125]。また飼育する甲虫類が増えすぎた為にその一部を知人・友人に無償でプレゼントしたことも。しかし2007年シーズンが不本意な成績に終わったことなどから、飼っていた甲虫類を全て友人等に譲り、飼育をきっぱりやめたという[125][126][127]。, その他の趣味として漫画、ゲーム、競馬が挙げられる。ブックオフなどで絶版の漫画を探す、新作で面白いゲームが出れば、それをクリアする予定を基にシーズンオフのスケジュールを組むなど、多くの情熱を注ぐ。また学生時代は「教科書に漫画がついていたから」という理由で日本史・中国史を好み、秋田遠征時には記者と久保田城についての話で盛り上がったという。高校時代は社会科の教員を目指していたこともあった[128]。, カラオケも好きであり、山本はカラオケを性格診断に利用することもある。ベテランの域に入ると山本は高校を出たばかりのルーキーなどに対しては、酒を飲ませないことや時間を考えて行うことなど配慮を行い、自著ではその様子を「保護者」と例えている。[129]、小田和正の大ファンであり、彼の名古屋公演ではシーズン中でもコンサート会場に姿を見せることがある。当人同士の交流もあり、2009年1月2日に東海テレビで放送された山本昌の200勝記念番組では、小田がナレーションを務めた。, 山本昌が2008年に通算200勝を達成し、同年に茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞したことを記念し、その翌年の2009年より茅ヶ崎市や茅ヶ崎市野球協会などの主催で『山本昌広杯少年野球大会』が創設され、茅ヶ崎公園野球場にて毎年8月の夏休みの時期に開催されている[130]。現役当時の山本はシーズン中であったために会場に直接来場出来なかったが、自身のメッセージを大会宛に寄せている。, 実父・山本巧は1966年度NHKのど自慢全国チャンピオンの演歌歌手。若い頃から歌手志望で、作曲家の船村徹に弟子入りしていた時期もあったというが歌手としてデビュー寸前の時期と、息子・昌広の誕生の時期が重なり、家庭を優先した結果一時断念している。しかし、2009年10月にインターナショナルミュージックからシングルCDを発売した[131]他、それ以前も自費出版にて数枚のシングル曲を発表していた。父はまた、山本の高校時代、それこそ日本中どこへ遠征しても駆けつけるほど応援に熱心であり、当時の野球部員の中に父の存在を知らない者はないほどであった[132]。, 5歳下の実弟・山本秀明は、自身の母校である日大藤沢高校野球部の監督として、チームを2007年春に行われた第79回選抜大会出場に導いている[注 14]。, 婚姻歴は2回で、最初の妻との間には一男一女を儲けたものの2011年に離婚。2013年12月に16歳年下の女性と2度目の結婚[133][134]。長女は2020年1月に元マラソン選手の瀬古利彦の次男と結婚[135]。, ノーヒットノーラン達成投手のみ記載。完全試合達成投手についてはTemplate:日本プロ野球完全試合達成者を参照。, その他に自身の先発勝利投手と、浜崎の登板、奪三振、先発出場、打席のそれぞれ史上最年長記録も更新, この年は出場選手資格を得られなかったため、出場選手としてもベンチ入りはしていない。, 『神奈川新聞』1983年7月19日朝刊A版スポーツ面7頁「全国高校野球神奈川大会第6回 山本昌の投球評判通り 追浜打線を1安打完封 日大藤沢4-0追浜(追浜球場) 山本昌まだ不満も」, 山本昌、72-73頁には「打者5人、1安打、2四球。3失点」と試合の詳細が語られており「ラストボールは変化球だったが本投間のほぼ真ん中にボールが落ち、肘に電気が走ったような痛みが襲って文字通りドクターストップであった」という趣旨の記述がなされている。, 週刊ベースボール2002年12/16号 62頁「保存版 記録の手帳 公式戦出場全選手個人成績 2002年プロ野球ペナントレース統括」より。, 「ピッチングマニア: レジェンドが明かすこだわりの投球術」学研プラス (2016/3/22)、31頁, 惜別球人 プロ野球 時代を彩った男たち 山本昌、谷繁元信、谷佳知、関本賢太郎、東出輝裕、木佐貫洋, 中日スポーツ:マサ、杉下さん超え 合言葉は「NO CHANGE」:ドラニュース(CHUNICHI Web), https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/1544022_m.html?mode=all, 甲子園の風 山本昌が憧れた先輩、甲子園初勝利。前橋育英・荒井監督の31年越しの夢。, 50歳現役を叶えた運命の出会いと 崖っぷちで掴んだ最強の武器|元中日ドラゴンズ 山本 昌|小松成美が迫る頂上の彼方, https://web.archive.org/web/20120418004723/http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20120415-OYT1T00492.htm, http://jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2012042200182, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/01/kiji/K20120501003157340.html, http://www.jiji.com/jc/zc?k=201308/2013082800932&g=spo, 時事ドットコム:中日の山本昌、今季限りで引退=自身HPで「僕が残ったらダメ」-プロ野球, 中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース ★2015年ドラフト指名選手入団発表, 中日・山本昌、引退表明もあきらめない!残り3戦1軍マウンド目指す - SANSPO.COM(サンスポ), 中日・山本昌が「引退・新球・優勝」を独占激白!(2)大谷との対談で出た“ある質問”, http://singo.jiyu.co.jp/nendo/394D8696-6BF5-1014-9AA5-DB3EFEFDD543nendo.html, 2002 平成14年度全日本選手権1/10EPツーリングカースポーツクラス決勝結果, 48歳山本昌、16歳年下夫人とハワイ婚 - プロ野球ニュース : nikkansports.com, “瀬古さん次男とマサさん長女が結婚=newspaper=F1 EXPRESS トーチュウ”, http://f1express.cnc.ne.jp/jap_other/index.php?cat_id=18&teiko_id=302059, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=山本昌&oldid=80207755, Bi-weekly賞:3回 (2010年度の第10回、2012年度の第2回、2014年度の第11回), 初完投勝利・初完封勝利:1988年9月16日、対ヤクルトスワローズ20回戦(明治神宮野球場), 1000投球回:1994年7月17日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場) ※史上255人目, 100勝:1997年7月21日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で7回1失点 114人目, 1500投球回:1997年9月9日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場) ※史上143人目, 1500奪三振:2001年8月17日、対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤドーム)、5回表に, 2500投球回:2004年6月18日、対横浜ベイスターズ12回戦(ナゴヤドーム)、3回表2死目に, 2000奪三振:2006年9月9日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、3回裏に, 3000投球回:2008年5月14日、対東京ヤクルトスワローズ8回戦(明治神宮野球場)、6回裏2死目に, 勝利:49歳25日 - 2014年9月5日、対阪神タイガース19回戦(ナゴヤドーム)、先発登板で5回無失点, 奪三振:49歳363日 - 2015年8月9日、対東京ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤドーム)1回表に, 打席:49歳43日 - 2014年9月23日、対読売ジャイアンツ22回戦(ナゴヤドーム)、3回裏, 完投勝利・完封勝利:45歳24日 - 2010年9月4日、対読売ジャイアンツ23回戦(ナゴヤドーム), ホールドポイント:47歳1か月 - 2012年10月3日、対阪神タイガース24回戦(ナゴヤドーム)、4回表に2番手で救援登板、3回0失点, 安打:48歳0か月 - 2013年8月28日、対東京ヤクルトスワローズ20回戦(明治神宮野球場)、2回表に, 実働年数:29年(1986年 - 2010年、2012年 - 2015年:歴代1位タイ) ※セ・リーグにおいては単独1位記録, 『プロフェッショナル 仕事の流儀:プロ野球投手・山本昌 球界のレジェンド 覚悟のマウンドへ』(DVD、.