そして、645年6月。飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)でついに事件が起こりました。中大兄皇子自らが剣(けん)をふるい、蘇我入鹿をたおしたのです。これにより、蘇我一族の勢力はおとろえました。 社会にドキリ(放送日:4月15日、6月3日) 国民主権 実際に国民の声が反映された事例を探っていくことで、国民主権について主体的に考えられるようになっていく。 小学校6年 社会 ・高齢者のための福祉政策などの日常生活における政治のはたらきや、我が国の政治の考え方について調べ、政治は人々の願いをもとにしながら、国民生活の安定と向上を図るためにたいせつなはたらきをしていることを理解できるようにする。 nhkのニュースサイト、nhk news webの政治ニュースについてのページです。最新の政治の動きや注目選挙の結果、外交・防衛のニュースならこちら。 nhkのニュースサイト、nhk news webの政治ニュースについてのページです。最新の政治の動きや注目選挙の結果、外交・防衛のニュースならこちら。 ここは、ドキリ社会研究所。「オーキドーキー、キリ!」。新人研究員のアッキーがAIアシスタントのキリに声をかけました。「おはようございます、アッキー」とキリ。「ねえ、今日のミッション、何?」とアッキーが聞くと、キリがスクリーンに映し出します。『平和主義とみんなの暮らしの関係を調べよ』とあります。「平和主義って言われてもさ、平和な暮らしって当たり前なんじゃないの?」とアッキー。するとキリが急に赤くなって高速回転し始めたのでアッキーはびっくり。キリは、「平和な暮らしは、当たり前ではありません。日本はかつて、大きな戦争を経験しています」と言って映像を映し出しました。, 世界各地が戦場となった第二次世界大戦(1939~1945)。日本もこの戦争で戦いました。戦争による日本人の犠牲者(ぎせいしゃ)は、およそ310万人。広島市と長崎市には原子爆弾(ばくだん)が落とされました。この戦争のあとに作られたのが、日本国憲法です。そこで定められたのが、「戦争の放棄(ほうき)」。外国との争いごとを武力で解決しない、戦力を持たないといった平和主義が定められたのです。平和主義は、基本的人権の尊重、国民主権とともに、日本国憲法の三原則となっています。, 「そうか…。それで憲法に平和主義が定められたのか。とはいえ…、戦争があったのってさ、昔のことだよね、キリ」と言うアッキー。するとキリが「これを見てください」と別の映像を映し出しました。第二次世界大戦のあと、平和を維持(いじ)している国はほとんどありません。多くの国が国内外で武力をともなう争いごとを行い、犠牲者(ぎせいしゃ)が出ています。日本は平和を維持している数少ない国の一つです。「え、そうなの? 平和を維持するのって、大変なことなんだな…」とアッキー。するとさらにキリが映像を映し出しました。, 日本は、戦争の記憶(きおく)を伝える努力をしています。沖縄の平和祈念(きねん)公園。慰霊碑(いれいひ)には、戦争で亡くなった人たちの名前が一人ひとり刻まれています。沖縄は激しい戦場となり、県民およそ12万人が亡くなりました。当時の沖縄県民の4人に一人です。原爆(げんばく)が落とされた長崎市や広島市には、平和を願うための公園が作られ、多くの人が訪れます。, 「そっか…。こういう場所を訪れることで、戦争を二度とくりかえしちゃいけないってことを感じられるんだね」と納得するアッキー。でも、「とはいえ…、うちの近所にそんな場所ないしなぁ」と言いかけたアッキー、「あ! こんなときは…」とドキリ・ガジェットを思い出しました。目に見えない『社会の仕組み』が見える“ドキリ・ガジェット”。今日は、「平和主義モード」に設定しています。「よし、まちに出てみよう!」。アッキーがドキリ・ガジェットをかけて調査に出かけました。, 「暮らしの中の平和主義、どこにあるかな…」。アッキーがまちを歩いていくと、さっそくドキリ・ガジェットが何かに反応しました。建物のとびらのようなものがあります。そのおくのトンネルにロックオン! 「なんで?」。ドキリ! ここは、かつての防空壕(ぼうくうごう)です。空襲(くうしゅう)のときににげこむために作られた穴です。「ここで、爆弾(ばくだん)から身を守ったんだな…」とアッキー。, 「高いところから見たらほかにも何か見つかるかな」。アッキーが東京スカイツリーの見えるビルの屋上にやってきました。ドキリ・ガジェットであたりを見わたすと、「え! まち全体に反応してる! なんで?」。ドキリ! このあたり一帯は、戦争中、大きな空襲(くうしゅう)によって焼け野原になりました。川沿いを歩いていくと、ドキリ・ガジェットが橋にロックオン。ドキリ! 「何があったの?」。この橋には空襲のほのおからにげようとした人たちがおしよせ、橋の上でぶつかりあいました。火の海の中、にげ場をなくした人たち1000人以上が亡くなった場所なのです。「そんなことがあったのか…」。, さらにまちを歩いていくと、ドキリ・ガジェットが今度はおじいさんとおばあさんにロックオンしました。「え? この二人も戦争に関係があるってこと?」。ドキリ! 現在の二人の写真。そして1942年ごろにさかのぼった写真。当時、二人は小学生です。「1942年ということは、子どものころに戦争を体験しているんだ」とアッキー。当時のお話をうかがうと…。「アメリカの戦闘機(せんとうき)がバーッて来ましてね、バババババッてうつんですよ。先生も私も弟も、ダメだと思った。そういう経験はありました。本当に戦争はこわい」(おじいさん)。, 「特別な場所じゃなくても、戦争の傷あとは身近にあるんだな…」と考えこむアッキー。「これからも平和な日本であり続けるために、ぼくにできることって何だろう」。パソコンで調べてみると…。広島に原爆(げんばく)が落とされた8月6日。平和記念公園では、毎年、広島平和記念式典が行われます。多くの外国人も参列し、世界に発信されます。世界中が注目するなか、二人の小学生が宣言するのは『平和への誓(ちか)い』です。「被爆者(ひばくしゃ)の思いに私たちの思いを重ねて、平和への思いを世界につなげます…」。この『平和への誓い』には、大勢の小学6年生の思いがこめられています。, 広島市の公立小学校の6年生は、毎年、平和についての作文を書きます。そのなかから20人が選ばれ、みんなで話し合い、『平和への誓い』を作ります。2019年、『平和への誓(ちか)い』を宣言する役を務めた金田(かねだ)さん。金田さんは、被爆(ひばく)した祖母が書いた体験談を読みました。「おばあちゃんが生きていたおかげで今の私がいるということを知って、今まで遠くのことだった原爆(げんばく)や戦争が一気に身近なものになった。友だちや家族を平和にしていくことが、日本や世界を平和にしていく第一歩だと思うので、まず周りから平和に、幸せにしていくことが大切だと思います」(金田さん)。, 「身近なところに目を向けることが大切なんだ。ようし、ぼくも自分にできること探さなくちゃね! 報告書、報告書…」と所長に報告するアッキー。みんな、社会に“ドキリ!”としたかな?, 昔のことだと思っていた戦争の傷跡が、今も各所に残っていることに気づくアッキー。平和を保つために何ができるのか、主体的に考えられるようになっていく。. 聖徳太子が亡くなってから、豪族(ごうぞく)の蘇我入鹿(そがのいるか)が力を持ち、天皇さえもしのごうとしていました。入鹿は朝廷(ちょうてい)の政治をほしいままにしていたのです。天皇を父母に持つ中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、この状況(じょうきょう)をどうにかしないと、と考えました。蘇我氏一族の勢いを止めないと…。蘇我入鹿をどうにかしないと…。, 天皇の息子として生まれた中大兄皇子は、当時最も力のあった豪族(ごうぞく)の蘇我入鹿をたおし、政治の改革を行いました。聖徳太子が亡くなったあと、豪族たちは勢力をのばし、好き勝手にふるまうようになっていました。豪族たちは、天皇から人々をまとめる仕事をあたえられていました。しかし、その仕事を代々受けつぐうちに、天皇にわたるはずの富を自分たちで使うようになっていたのです。, その豪族(ごうぞく)たちの頂点に立っていたのが、蘇我氏です。蘇我氏とは、聖徳太子と力を合わせて政治改革を行った蘇我馬子(そがのうまこ)の一族。その孫の入鹿が、天皇をしのぐほどの富や権力を持つようになっていたのです。当時19歳(さい)だった中大兄皇子は、豪族の一人、中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに、蘇我氏をたおす計画をくわだてます。それを持ちかけたのは鎌足だといわれています。, 皇子と鎌足の出会いは、飛鳥寺(あすかでら)の蹴鞠(けまり)の会のときといわれています。皇子が蹴鞠に夢中になり、鞠をけった皇子のくつが、勢い余ってぬげてしまいました。そのくつを拾って皇子に差し出したのが鎌足でした。自分より低い身分の鎌足に向かってていねいに礼を言う皇子。その態度を見て鎌足は、この人こそ次の天皇にふさわしい人物だと考えるようになったのです。, そして、645年6月。飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)でついに事件が起こりました。中大兄皇子自らが剣(けん)をふるい、蘇我入鹿をたおしたのです。これにより、蘇我一族の勢力はおとろえました。その後、中国から帰国した留学生などとともに、すべての土地と人々を天皇が治める新しい政治の仕組みをつくることをめざしました。そしてこの年、中国にならって、初めて、「大化(たいか)」という年号を定めました。この改革を、「大化の改新」といいます。, 天皇を中心とする国づくりとは、一体どのようなものだったのでしょう。有力な豪族(ごうぞく)は、「貴族」という位の高い役人となり、政治に参加する仕組みがつくられました。これが、貴族の始まりです。これにより、それまで豪族が支配していた土地や人々は、国が直接支配することになりました。地方は国や郡に分けられ、都から役人を派遣(はけん)しました。中央の政治がすみずみまで行きわたるようにしたのです。, さらに、農民が国に納める税の制度も整えました。租(そ)は、イネのとれ高のおよそ3%を納めます。調(ちょう)は、織物や地方の特産物を納めます。庸(よう)は、年に10日間都で働くか、布を納めます。こうしたことが、税として農民の負担となったのです。また、朝鮮半島や中国大陸からの勢力に備えて九州北部を守ったり、都の警備もしたりすることになりました。兵士として国を守る役目も果たさなければならなくなったのです。, 中大兄皇子は、その後、天智(てんじ)天皇となります。そして中臣鎌足は、大化の改新の功績がみとめられ、「藤原(ふじわら)」という格式のある姓(せい)をもらいます。その子孫は代々貴族として栄えました。, 645年は、大化の改新の年。こう覚えてはいかがでしょう。「むかしご(645)うぞくの世。今、天皇の世。大化の改新で政治が変わる」。.